『ユリシーズ』覚え書き

 ジョイスの『ユリシーズ』について思いついたままに書いていこうと思います。

 『ユリシーズ』という小説はホメロスの『オデュッセイア』を下敷きに書かれている。約2500年の時を経て、寝取られ亭主と若き耽美的神学者を主人公にした物語に蘇る大英雄の冒険譚。オデュッセウスの旅路はダブリンのまったく何の変哲もない1日へと変貌する。神話と日常。この極限の隔たりが、ジョイスの手によって文字通り「一個の世界」に収斂されていく。

 われわれの中には恐らく「神話の世界など大昔の世界であってこの現代において神々などもはや存在しないし、また、神の存在さえも単なる伝説に過ぎず実在したかどうかなど分からないではないか」と考えているひともいるのではなかろうか。確かに、われわれはこの目で神を見たことはない。たとえ見えたとしても、幻覚だと言われるだろう。しかし、ここではそのような感覚的なレベルの話をしたいのではない。私がしたいのは、神話の世界が言語に宿っているということと、それは現代においても確実に生きているということだ。

 そのことを体現している作品がまさに『ユリシーズ』だと言うのだ。つまり、われわれがそれを読むとき、神話と日常あるいは神性と人間の両方を「同時に」見るのである。

 『ユリシーズ』を単なるダブリンの1日を描いた物語としても、『オデュッセイア』の現代版としても読むことはできない。いや、確かにその両方どちらとしても読むことができるからこそ、それは決してできない。なぜなら、どちらの読みを取ったとしても「神話」か「日常」のどちらかを取りこぼしてしまうからだ。

 ゆえに、『ユリシーズ』には「神話」と「日常」の両者が混在している。この混在の仕方は単に「ここからこの部分は神話」だとか「この部分は単なる日常」といった混ざり合い方ではない。そうではなく、全体において、枠組みにおいて両者が混ざり合っているのである。

 ここにおいて「神話」と「日常」はもはや区別できない。われわれに可能なことは渾然一体として何かから、部分的にまとまったものに対して「日常」や「神話」という認識を当てはめることだけである。

 『ユリシーズ』がまったくもって面白い点は、神話を日常に接続したことである。われわれが毎日を生きるこの日常世界。目で見て、耳で聞き、肌で触れることのできるこの世界。それはまったく貧しいものではない。確かに上澄みは単純で見通しやすいものかもしれないが、しかし、根底に沈み溜まっているものはそうではない。そこには計り知れない豊穣性が宿っている。『ユリシーズ』の試みは、まさに沈殿物をかき乱して上澄みと混ぜ合わせることにあったと言える。

 だとすれば、神々が暮らした世界は未だに失われていない、いや、失われることなどあり得ない。われわれは今日においても、眼前に広がる光景に神々や英雄を見出すことができる。なぜなら世界はそれほどまでに豊かだからだ。このことは単に視覚的に神を見出すなどという次元の話ではなく、ある種のリアリティを伴って神々の住まうこの世界に「私」も共に住まうということだ。確かにこの現代的世界において神話の出来事がそのまま起こるということはない。にもかかわらずわれわれは日常に神話を見出す。

 科学はこの世界のアスペクトを一方では引き剥がしたが、他方では張り直した。このことは、世界解釈の枠組みとしての科学では汲み尽くせない世界の豊かさがあることに他ならない。同時に、他の世界解釈の枠組み(たとえば散々述べてきた「神話」や「日常」)においてもそれが「枠組み」である以上、必然的にそれから溢れ出るものがある。であるならば、『ユリシーズ』という枠組みで世界を解釈しようとすることもまた、その枠に収まりきらないカオス的存在を完全に捉えることはできないということになるだろう。そしてこのことは全く正しいと思う。「科学」「哲学」「文学」を、世界を解釈するという枠組みとして用いる限り、それが枠組みである以上は、完全で絶対的に正しい唯一の枠組みたりえない。

 むしろわれわれは、枠組みなしに、解釈なしに、世界そのものと端的に触れ合っているのではないか。内に豊穣性を宿すカオス的世界そのものとの戯れこそが、あらゆる運動、生成変化の根源なのではないか。

 神は死んでいない。神は生きている。言語の内に、概念の内に、世界の内に。しかし、神は絶対ではない。すべては等価である。英雄の冒険譚がわれわれの退屈な毎日であるということ。神々の世界が人間の世界であること。二つの項そのものの価値は等しい。唯一価値があると言えそうなものは「それらは等しい」と語ることのできる「視点」である。それこそが『ユリシーズ』的視点なのだ。