芸術の本質についての信念

 19世紀初頭のドイツ、芸術の本性に「生き生きとした力」を認めようとする潮流があった。それは、目に見える自然の奥底で迸る「根源的な自然の能産性」から汲み取られるものであった。この力に与ること、この力を模倣すること、これこそ芸術が使命とすることの一つだと考えられたのである。

 しかし、制作技術に習熟した者もそうでない者も、何かを生み出そうとする人間は、意識するにせよしないにせよこの自然の根源力に突き動かされ、それを模倣しながら動力源として制作を営むことに、いかなる必然性があるのだろうか。というのも、それはあってもなくてもよいからである。

 ところで、神による世界創造の必然性とはいったい何なのだろうか。また、当時のドイツ人たちが、根源的自然の能産性に何を読み取ろうとしていたのだろうか。

 世界が現にこのようにあり他のようにはないことの理由に考えをめぐらせるとき、われわれは現実存在する世界についての必然性を考えている。たとえば、神という最も賢く、最も善い存在者においては、思考することと行為することが一致するので、神がその頭脳のなかで思い描いた諸世界の観念の中でもっとも善い世界が、この現実世界として実現したのであるという説明がその一つである。このような考えのもとでは、どんなに過激な戦争、災害、犯罪行為が起きようとも、世界が他のありかたをしていればより悪なる結果に陥っていたという理由によって、それらを現実のものとして肯定することができる。もっとも、最善なる神の存在と神による世界設計についての強大な確信がなければ、ほんとうの意味で現実を肯定したことにはならないのであるが。

 とにかく、現に何かがあるということについて、それは突如として無から現れたのではなく、何かによって作られたのだという発想がある。なにかが存在する以上、それを存在させている原因があるはずだ。それは、万物の場合では神や自然などの第一原因となるものだろうし、道具や芸術作品の場合では人間である。では、それはどのようにして為されるのであろうか。

 たとえば、いま鍬を作るとしてみよう。鍬を作るためにまずそれを作る人間が必要である(作動因)。また、できあがった鍬のイメージがその製作者には求められるだろう、あるいは技術が受け継がれ洗練されているのであれば、設計図に則るだけでいいのかもしれないが、ともかくその道具の全体像がイメージされていなければならない(形相因)。さらに、そのイメージだけでは現実に道具を生み出せないから、木材や石、鉄といった素材が必要とされる(質料因)。最後に、そもそもその道具を作らねばならない目的が作者には要請される(目的因)。たとえばそれは、人間の手よりも効率的に畑を耕し、農作物をより大規模に栽培するためというような理由ないし目的である。

 しかしこのような記述には大きな困難がある。その困難とは、いかにして作者の頭の中の全体像が現実のものとなるかについての説明が抜け落ちているということだ。たしかに、鍬あるいは生活上の困窮に迫られて必要とされる道具についてはこれでいいだろう。なぜなら生活が目的となったときそれはひとを強力に動かすからである。しかし、絵画や音楽、詩についてはどうか。それはいかなる生活上の困窮から必要とされるのだろうか。これは文化の起源を問うことにもつながっている。また、頭のなかで完成している全体像を、なにゆえ現実のものとする必要があるのだろうか。これらの点において、道具と芸術に差異はあるのだろうか。

 神もまた、なぜその頭のなかで設計された世界を、そのままにしておくことなく、現実に存在させてしまったのだろうか。というのも、そのせいで却って神は失われることになるからだ。なぜなら、神という最も完全で永遠の存在者が実在するところには神以外のものは実在せず、また被造物は神と比べればより不完全であり、現に被造物が実在することは明白である以上、それらがあるところに神は実在し得ないからである。神なしで語るとすれば、なぜ様々な可能性の中からただ一つのものだけが実現しなければならなかったのか、その必然的理由はいまだ不明のままである。そしてまさしく、神がお隠れになってしまったわれわれの世界が現にこのようにあることの必然的理由は、不明なのである。

 神は死んだ、われわれが神を殺したとはよく言われることである。たしかに、原始的な生活様式と比べれば、少なくとも日本では政治と宗教が分離し、だれもが好きな宗教を信仰することが許され、誰かに何かを信仰することを強制されることもあまりない。とはいえ、盆や彼岸の文化は残され、形だけでも行うというひとびとも少なくないだろう。しかし、われわれの生活に共同宗教が入り込んでくる場面は全くと言っていいほどない。そのような実定的宗教は日本には存在しない。われわれは、キリスト教のなかに生まれ、キリスト教と共に暮らし、キリスト教とともに死ぬというようなことを経験していない。われわれの日々の生活規則に何らかの宗教が混入することなどないのである。あったとしても、それはまさしく個人においてのみしかありえない。それゆえに、各個人が別々の神と教義をうそぶくことで新興宗教が成立するのである。神の存在濃度は薄まってしまった。しかし、神はほんとうの意味での無に消え去ってしまったのではない。神は隠れているだけで、存在していないというわけではないのである。なぜなら、神が存在していなければ、全ては無であるからだ。

 だが、隠れている神を見出すなどというこれほどまでの矛盾があるだろうか。そのような神は決して見いだされないからこそ隠れていると言えるのであって、誰かに見出されてしまっては、もはや隠れていることにならないのである。換言すれば、われわれが神について何かを語るたびごとに、その語りから神は消え去るということだ。神は主語にも述語にもならない。

 神は絶対的に隠れている。それゆえにわれわれの世界は実在する。神が隠れることで世界がある。いつのまにかその世界の中に存在させられるわれわれは、この世界の外に出て神そのものを見ることはできない。また、世界の中の諸事物の原因を遡っていくことで見いだされる第一原因に、われわれは到達することができない。それは世界の外にある。それを見るためには世界の外にでなけばならないが、われわれにそれは不可能だ。したがって、世界が現にこのようにあることの必然的な理由は、存在しない。それは無限の暗黒の彼方に隠されている。

 もしそうであるならば、芸術とはいったい何を行っているのだろうか。神が己を隠すことで世界を創造したのだとしたら、芸術はいったい何を模倣して制作しているのであろうか。己を隠すことによる能産性。

 神はわれわれの眼に見えるものではない。では、自然はどうだろうか。根源的な産出力としての自然もまた、われわれの眼には見えない。根源力としての自然もまた、己自身を隠すことで、大地や海、大気、鉱物、植物、動物を生み出したのだとしたら、そのような自然は己を隠すことによって反対に、己自身の力をそれらにいきわたらせたように見える。神もまた、己を隠すことで自らを万物の中にいきわたらせたと言えるだろうか? 一般にこう言うことが許されるだろうか。天地を創造した根源的な力は、それ自身が虚無になることによって万物をその力のなかに含み込み、かつ、万物はそれぞれがあの力を自身の内に持っている、と。

 私は、おおいなるパラドクスを語っているのではないか。一方で、世界が現にこのようにあるべきで他のあり方ではならない理由は、神が隠れてしまったゆえに永遠に分からないままであると語っておきながら、他方で、世界がこのようにあるのは神が自身を隠したことによると語っている。それとも、私には世界が現にこのように存在することの理由が分かっているのであろうか。いや、神が隠れてしまった以上、それは不可能である。しかし、神がお隠れになることで世界は創造されたのである。でなければ、ただ神のみが実在し、他のもの全てはありえないことになってしまうのだから。

 このパラドクスはあえて解かぬまま放置しておこう。問題は、自身を隠すことによって何かを生み出すことについてである。もし、根源的な創造力が、己を隠すことですべてを生み出し、かつ、それらに自身の力をいきわたらせたのだとしたら、芸術家も当然みずからの内にその力を持つはずである。そしてその力に与ることで作品をつくるのだとしたら、根源力が万物にたいしてしたように、芸術家も己自身を隠すことによってその力を作品に分有させねばならない。

 しかし、作者が己自身を隠すとはいったいどういうことなのだろうか。それは、必然性と合理性による体系的な網目のなかに不意に訪れるもの、最後にやってくる偶然性ではないだろうか。あるいは、最後になって作品は自ずからその偶然性を生み出すことを以ってして完成するのではないだろうか。どんな傑作も、ただ偶然成功した。このように語ることはおかしなことだろうか。しかし、だからといって私が言いたいことは、芸術家は実はみな適当に制作をしているというようなことではない。芸術家には主観的にせよ客観的にせよ、制作活動を行うための様式が考えられる。どんな様式もなしに何かを作る活動は、やはり子供の遊びに過ぎない。そしてそれは芸術ではない。なぜならそれは徹頭徹尾、偶然でしかないものだからだ。対して、芸術においてはその制作活動それ自体を見れば、技術に基づいた明晰で意識的な活動、つまりある程度は必然的で合理的な活動である。しかし、これだけでは組み立て式の家具を作るのと何も変わらない。芸術が芸術であるためには、その活動をせしめる動機、すなわち、言語や概念を超えた言い知れぬ感情、計り知れぬ感動がなければならないのである。子供が作る砂の城と、絶えざる生成消滅の反復という世界遊戯に心を打ち砕かれた人間の創る砂の城とでは、結果が同じでもやはり何か決定的な差異があるはずだ*1。約言すれば、芸術家はほの暗い感動に突き動かさることで、明晰な制作活動を通じ、最後にその感動を作品において再現しようとする。意識をもって意識を乗り越えねばならない。この最後の工程、芸術家自身の賜物だともそうでないとも言えないようなもの、これこそ、偶然の産物だと言いたいのである。それは、私の意識的な活動の最終局面において、何か向こう側から、私ではないものの側から、到来するもの不意にやって来るもの、したがって、それは芸術家の制作計画に含むことのできないもの、主観によってあらかじめコントロールすることのできないものである*2。これこそ、古来より詩人が経験してきた、アポロンの矢に撃たれるということに違いない。したがって、芸術家はこの矢に二度撃たれる。一度目は、制作のきっかけとして。二度目は、作品の完成において。

 結局のところ、己を隠すことによる能産性とは、いったい何なのであろうか。私としてはこれを神秘的な脱我体験にのみ位置づけることはしたくない。むしろ、より一般的なレベルでの経験だと考えられる。あるいは、脱我経験がそもそも一般的なものなのかもしれない。「己を隠す」とは、経験の担い手たる自我を、知性の軛から感性と構想力に解き放つことだ。「それによって何かを生み出すこと」とは、感性と構想力に解き放たれた自我が、全経験を引き連れてふたたび知性へと結集していくことである。この知性は明らかに当初の知性とは別物である。感性と構想力が受け止める経験に極めて接近した知性はそれ内容だけでなく形式も作り変えられる。芸術家は、制作活動とその作品を通じて、世界の新たなアスペクトを切り開き、新たな経験を可能にさせる。そしてこれは、私が私ではないものと邂逅することでのみ可能なのだ。あらかじめ私が持っている世界への視点は有限なものにすぎない。しかし感性はその視点以上に世界を暗黙の裡に多様に捉えている。私は、固定化された知性の枠組みに留まっていてはならない。ぜひとも、それを投げ棄てて主観と客観が相互に目まぐるしく入れ替わる感性の世界へと降りていかなければならない。そこにおいて見出される私でないもの。これによってのみ、私は私でないものによって作り変えられ、新たなものではあるが同じ私となってその経験を引き連れながら知性へと帰還して、その経験を再現するような作品を作ろうとする。もちろん、誰もが作品を作りたくなるわけではない。しかし、たとえば、この経験を言葉で語ろうとしたり、身振りや表情で誰かに伝えたくなったりするといった、表現への欲求を駆り立てるという意味では普遍的なものである。たとえ、それが次の日にはなぜあれほど熱狂していたのか分からなくなってしまうものだとしても。

 しかし、神に二度目の矢は訪れるだろうか。恐らくないだろう。というのも、神は完全な存在者であるために、神が神以外のものに感動することが即ちそれらの創造であるからだ*3。しかしわれわれは不完全な存在者であるために、最初の感動をそのまま何らかの形で再現することはできないのである。だから二度目の矢が訪れることに賭ける。芸術とは、いくぶん真剣(ernst)な賭け(jeu)なのである。

 

 

*1:しかし、芸術家はもしかすると最後には子供にならなければならないのかもしれない。子供になることこそ己を隠し作品を完成させることなのだろうか。

*2:果たしてこれを「予感」することはできるだろうか?

*3:もし神がナルシス的であるならば、神は神自身に感動したことになる。これは一見もっともだが、自身を見ることで感動する神とそれに見られる神とはどれほど同一であると言えるだろうか。ここにはすでに、やはり神と神以外のものの同時存在の形式が見出されるのではなかろうか。