プラトンの詩人批判について

 プラトンの詩人批判にはおおよそ次の二つがある。

イデアという理想世界がまずあって、現実世界はその劣化コピーであるから、その現実世界を写しとって表現(ミメーシス)する詩人は、二重の劣化を抱えている。

②詩人が詩を詠うときは、狂乱状態にありながら神の言葉を聞いて、それを人間の言葉に置き換えているのだから、詩人自身は自分が何を語っているのか知らないのである。

 私が初めてこれらの詩人批判を聞いた時、プラトンがいったい何を語っているのか分からなかった。あるいは、本当にプラトンがこのようなことを語っているのだとしたら、とんでもない暴論だとも思った。

 しかし、あるとき放送大学「西洋芸術の歴史と理論(’16)」の第二回「プラトン美学ー文学の深い可能性ー」を見て、まさに自分がいかにごくごく浅いプラトン理解をしていたかを痛感した。

 というのも、このテレビ講義では、以上のようなプラトンの詩人批判を踏まえたうえで、担当教員である青山昌文先生が、実践詩人である高橋睦郎氏にこのプラトンの考えについてのインタビューを行い、そのインタビューの中で以下のようなことが語られたからである。

 ――プラトンが批判したのは「いわゆる詩人」「雰囲気詩人」である。というのも、そのような詩人はありもしない自己を個性として表現し、個人が経験してきた苦しみ・地獄を現わしているからで、実はこれは芸術からは最も離れた営みであるからだ。真の詩人とは、そういった一般に個性と呼ばれるものを表現において超越し、没個性に至ることでその地獄に救済をもたらすものでなければならない。そのようにして考えてみれば、狂気のうちに神の声を聴くということは、まさしく、個を脱して世界(普遍的な森羅万象の本質)へと至ることであり、また、それは単なる狂気ではなく、神の声を極めて鋭く人間の言葉に置き換えるという理性的なプロセスを経るのであるから、真の詩人は狂気(ホメロス)と理性(ソクラテス)の両方を兼ね合わせていなければならないのである。(私が噛み砕いて記述したものなので、氏の叙述とは必ずしも一致しないだろう)

 

 この語りにはたしかに、高橋氏の詩の理論が組み込まれている。しかし、そうであっても、これがプラトンの詩人批判に別側面から光を投げかけていることには間違いがない。つまり、プラトンの批判対象は「いわゆる詩人」であり、「真の詩人」を批判しているのではまったくないということである。

 私が解釈したところによれば、前者は自己・個性・自分が自分であるという性質を志向している。しかし、「私が私である」ということはこの世界についての事実であり、創作を始めるにあたる前提にすぎない。その前提をいくら掘り返しても何も出てこないわけで――なぜなら、その前提の向こうには何も無いから――そのような無を開示したところで、個々人の経験における苦悩・絶望・憤怒の吐露に終わってしまう。

 私は別に、そのような感情を全く軽視しているわけでも、それらを抱くことを禁じているわけでもない。つまり、「私が私である」ということは自明の前提として、皆がスタートして生きており、「私」はその人生において様々な経験を蓄積していくだろう。それは、社会に対するやるせなさ・怒り・諦めかもしれないし、生まれてきたことの喜びかもしれないし、救済していくれる神の不在への嘆きかもしれない。

 しかし、そのような経験をそっくりそのまま、言葉のうえで表現してしまっては、単なる感情の吐き出しに終始し、遂には誰のためでもない物語(自分のためでさえないのではないだろうか)に成り果ててしまうだろう。

「ありもしない自己」とはそういう意味においてである。つまり、もとより自己ははっきりしているので、そこに何か個性・オリジナリティと呼ばれるような他なるものを探究しようとしても、自己は自己なのであるから、他なるものであるということはあり得ないので、個性が見つからないのは当然の帰結である。

 これは私の考えだが、そもそも、「個性」や「オリジナリティ」という言葉は評価語であり、「私」以外の誰かからもたらされるものである。それを、自分一人で探し求めようとしても無理な相談であろう。

 そのようなわけで、異他的な自己を志向して表現されたものは、実は、無を媒介にして経験が表されていると言えるのであるが、では「真の詩人」はどうなのであろうか?

 これも、私の解釈によるが、真の詩人は「世界」を志向している(いや、正確に言えば「世界」から志向されている?)と言える。ここでいう世界とは「私」ではないものの総体である。「私ではないものの総体」に何が属するのかは個々人が経験してきたことによって決まるだろう。

 とにかく、この「世界」というのは、「私」の方からは絶対的に隔絶している「異他的なるもの」なのであるが、反対に「世界」というのは、「私」を含めてあらゆるものを内包した全体(それが物であれ観念であれ)であるから、「世界」の方から「私」の方へやってくることは可能である。つまり、こちら側から何らかの方法でそういった「世界」と合一するというのではなくて、「世界」の方から詩作の原動力となるような美しさを伴って不意にやってくるということである。

 加えて言えば、真の詩人が語るのは「世界」の本質である。「世界」が他なるものの総体であれば、べつにその世界からいかなる観念を捨象することも可能であるが、しかし、そのような「世界」を観察する人間が詩人になれるだろうか? むしろ、詩人が語るのは、「世界」の内側に超越した概念すなわち本質なのであって、別に「世界」そのものを語るのではない。

 個々人が世界をどのように見るのかはひとによって様々であるだろうが、それでは、主観と一体一対応の世界という構図ができあがってしまい、結局のところ、「自己」にも「世界」にも「一個性」がまとわりついてくることになる。何が言いたいのかというと、「真の詩人」は決して、いわゆる詩人が「自己」について語るのと同じように、「世界」について語っているのではないということだ。

 ここでは、最早「世界」という言葉は適切ではないように感じられる。なぜなら、「世界」という言葉は、何か表層にある共通のものという印象がするからだ。よって、「真の詩人」が志向しているものは、実際には「世界の本質」であると言い直さなければならない。個々人が見ている「世界」は相対的であるが、しかし、それらの中においてもやはり絶対的なもの、あるいは、われわれに「世界」を与えているところのものとでも言えばいいのだろうか。

 そういった、ある種、普遍的で本質的なものを志向し(しかし、この志向性はその対象そのものに到達することなく空振りに終わり続ける)ふとした瞬間に、まさに世界の本質から前言語的な何かを受け取り、それを極めて理性的に人間の言葉で置き換える、これが「真の詩人」のあるべき姿であるとするならば、こういった疑問が湧いてくるであろう。普遍から何かを受け取るということが没個性であるならば、それを人間の言葉で語りなおすことは逆に個性に戻ってきてしまっているのではないか? 

 この問いに答えることは簡単である。「いわゆる詩人」が雰囲気で終ってしまうのは、自己の内にあるはずもないない「自己」を求め続け、そういった普遍を経由していないからであり、「真の詩人」は普遍を経由して理性的に人間の言葉で表現しなおしているのであるから、その限りでは「個」に留まっているが、しかし後者のそれは前者の表現する「個」とはまったく別様の「個」なのである。(ただし、ここにはある種の独我論的な問題が潜んでいるのであるが、それはまた別の機会に)

 そもそも、「真の詩人」が留まっている「個」というのは、創作行為の大前提である「私は私である」というまったくもってトリヴィアルな事実のレベルである。そして、「真の詩人」はこれを表現しようとしているのではない。これをいくぶん捻じ曲げて表現しようとするのは「いわゆる詩人」の方である。

 まとめると、プラトンが批判した詩人は、「自己」というどこを探しても見つからないような無を志向し表現しようとする「いわゆる詩人」あるいは、この「世界」そのもの(決してその深層まで迫っていかない)をそのまま表現しようとする「いわゆる詩人」なのであり、決して、狂気の内に神(「世界の本質」)の声を聴き、理性によって人間の言葉に置き換える「真の詩人」ではない。それどころか、そういった神の声を人間の言葉で再現(ミメーシス)しようとする「真の詩人」は、ホメロスがそうであったように、当時の古代ギリシャ共同体において、非常に高く評価されたのである。このように見てくれば、「詩人は自分が何を語っているのか知らないのである」という言明は、詩人全体に対する批判というよりも、当時の吟遊詩人の在り方一般について述べたものであるということも言えるのではなかろうか。