文学理論:「方法なき方法」についての試論

 小説を書くときに、皆さんはどういったことをあらかじめ考えてから書き始めるでしょうか。世界観、舞台設定、キャラクターのプロフィール、物語の展開図、断片的情景のメモ、文体の構造、などなど、作者によって実に様々なことが前提とされていることでしょう。

 そこで私が提案したいのは、そういったことを「あらかじめ」考えておく、もっとはっきり言えば、理論的な一貫性や統一性を定めないまま書き始め、書き終えるということです。

 これを、なんの理論も前提せずに書くという意味ではなく、沈黙のうちに蠢いている言葉をそのままに、なにかを「なにか」としてアイデンティファイせずに書くという意味で、「方法なき方法」と呼びたいと思います。

 この方法の素晴らしい点は、多層的であるが同一的でもある「世界」をありのままに描き出すことができることにあります。

 シュールレアリスムの「自動記述」は折角、無意識を動的なまま写し出すことに成功していたのに、それをわざわざ正気状態の視点から上塗りしてしまったことにその欠陥の全てがあると言えます。

 しかし、「方法なき方法」は推敲など必要としません。すべてをあるがままに並置していくのですから。「推す」か「敲く」か、どちらが相応しいのかという苦悩に縛られることはそもそも起きないのです。「いま、そのとき」書いたものが相応しいのです。

 とはいえ、人間精神や世界の運動が訂正や修正、反省を行わないということはあり得ません。「方法なき方法」は一見、すべてを肯定する書き方のように思えますが、そうではありません。もちろん、「方法なき方法」も文章に修正を施すことがあるでしょう。しかし、それは「捻ること」、その文章の別のアスペクトを露わにしてあげることなのです。よって、「方法なき方法」では何かを消すことはありません。多様性を多様性のまま持続するためには、「推す」か「敲く」かではなく、「推すと敲く」という表現が適切なのです。

 「方法なき方法」が描き出すものは、この世界のアスペクトの多様さです。ただそれだけを表現したいのです。ここでいう世界には「私」も含まれています。決して、認識する「私」が「世界」「対象」から分離してはならないのです。絶えず、それらとの連関の中に投げ込まれている「私」と、その連関全体としての「世界」。ですから、「この私」の、あるいは「作者」の精神世界の豊かさといったものなどには、この理論においてまったく価値がありません。「この私」=「作者」の個性など意味を持たないのです。

 さて、当然の疑問として、では「方法なき方法」はジョイスやウルフなどの意識の流れ的手法といったいどこが違うのか?ということが挙げられるでしょう。

 この問いには、以下のように答えたいと思います。

 彼らの手法は一般に、外的世界のリアリズムから内面世界のリアリズムへの転換として説明されます。つまり、確固としてある客観世界を再現(ミメーシス)するのでなく、世界を認識するその精神作用あるいは主体を再現(ミメーシス)するという転換です。

 しかし、先にも述べた通り、この認識する主体の精神は世界から原理的に分離されてはならないのです。むしろ反対に、世界と主体は不可分の動的連関の中にあって、絶えず更新され続けているのです。よって、ジョイスやウルフが本当にもしも、一般的に言われているように内的世界を再現しているのであれば、「方法なき方法」は内的でも外的でもない、世界そのものを再現していると言えるでしょう。

 ところで、誤解があるといけませんからあえて述べておくと、この文章は「方法なき方法」を用いて書かれてはいません。修正の痕跡を残すこともしておりませんし、様々な理論を前提してこの試論を構築しています。つまり、この試論は「方法なき方法」をメタ的な視点から述べているということです。

 メタ的な視点から見るということは、それが何であるかを思考するということです。しかし、「方法なき方法」の実践においては、それが何であるかは意識されません。同時に、小説のための様々な理論もはっきりと限定して適用しようとはしません。それらを混沌のうちに無限定なものとして、明確な形を与えることなく書くこと、これが「方法なき方法」なのです。そして、それが何であるかを問うことをしないということは、極めて「日常的」な営みであるといえます。「方法なき方法」とは、そういった意味においてはある種の原始的な創作行為であるといえるのではないでしょうか。