虚構作品の登場人物に自由はあるのか?

 去年の冬頃から、「虚構作品内の登場人物に自由はあるのか?」という問いに縛られている。今さらになって基本的なことが確認できたのでメモ書き程度にここに記しておきたいと思う。

 

 ロラン・バルトが「作者の死」を宣言したことは有名である。これによれば、作者が死ぬことにより作品はテクストとして読者に解放され、様々な文脈に置きなおされることが可能となる。

 であれば、例をあげると、『山月記』で虎に変身することのなかった李徴や、オフィーリアが死ぬことのない『ハムレット』をわれわれは創作する事が出来る。ということは、作者の死によって作品内の登場人物は作者の絶対的支配から逃れ、自由に生きる権利を手に入れたと言えるだろう。

 もちろん、バルトはそのようなことを主眼として「作者の死」を宣言した訳ではない。しかし、「虚構作品における登場人物の自由」を考えてしまう私にとってこの考えは非常に魅力的に見えるのだ。

 だが、ここで一旦立ち止まって考えてみる必要がある。私は先ほど、作者の死により登場人物は自由を獲得したと述べた。しかしこれは本当のことだろうか?というのも、確かに登場人物は「その作品」の「その作者」からは解放されたかもしれないが、再び別の作者の作品に置きなおされてしまうのであればやはり自由はないと言えるからだ。これでは、人形劇における人形に糸が付いたまま人形使いが交代しただけでのようなものではないか。

 以上の事から、私は「虚構内の登場人物に自由は無い」という確信を得た。なぜなら、「作者」が登場人物の自由を剥奪しているのではなく、「作品」が本質的に登場人物から自由を奪っているのである。

 例えば、自由意思と決定論をテーマにした作品において、作品の主旨としては「人間はすべからく自由である」ということを述べていても、その作品内の登場人物がいつ、どこで、なにを、どのように、なぜ行うのかは決定してしまっている。なぜならそれは一個の「作品」であるからだ。たとえそれが、未完結であろうが、続編が予告されていようが、別の作者が代筆していようが関係ない。それが「作品」であるというまさにそのことによって、作品内の登場人物に起こることは決定されてしまうのである。

 このことを換言すれば、「作品」は決定論を契機として含んでいなければならない、ということになる。そうでなければ「作品」は「作品」であるとは言えない。芥川龍之介の『羅生門』は何回読んでも、下人は老婆と出会ってしまう。もちろん、下人が老婆と出会わない『羅生門』を書くことはできる。しかし、その場合でも、それを何回読もうと下人は老婆と出会わないのである。

 

 この確固たる事実――虚構内の登場人物には自由がないということ――を確認するにあたり、現実のわれわれの在り方と比較して、作品に登場する人物の在り方と「虚構内存在」と呼びたいと思う。

 われわれ人間は「世界内存在」として、世界とのかかわり方をあれこれ考える事ができる。確かに、実際には習慣・制度・先入見等さまざまな経験的束縛をうけるため完全に自由に世界と関わることはできないかもしれない。私が今から宇宙飛行士を目指そうとしても、私自身の身体的虚弱や金銭面の問題、両親への負担などを考え合わせると、やはり妥当で実現可能な他の職業を選択するだろう。しかし、可能的には宇宙飛行士や大統領としての自分の在り方を想像できることから、われわれは本質的には世界とのかかわり方について自由なのである。むしろ、この自由があるからこそ、子供に将来の夢を聞くと「お花屋さん」や「プロサッカー選手」だけでなく、「あめ玉」などの答えも返ってくるのである。

 では、「虚構内存在」についてはどうであろうか。端的に言えば、「虚構内存在」はその虚構世界に対しての在り方はあらかじめ決定されており、むしろ世界の一部として埋め込まれていると言える。つまり、「ある舞台の上の登場人物」なのではなく、舞台と登場人物は一体となっており、あるいは設定・テーマ・世界観などを含めて「作品」という大きな全体をなしているのである。

 そういう意味でも「虚構内存在」に自由はない。「虚構内存在」が虚構世界に対してその在り方を決定することなど不可能である。それは、作者、作品あるいは読者によって一通りに決まっている。なぜなら、「作品」には始まりがあり終わりがあるからだ。

 たとえ、主人公の生死が不明であるかのような終わりを迎える作品であっても、主人公の身にどのようなことが起き、どのように振る舞ってきたのかは決定している。生きているか死んでいるか分からないような終わり方は、まさにそれで終わりなのであって、「生きているか、あるいは死んでいるかのいずれかである」とさえ言えないだろう。なぜなら「作品」はそこで終っているからだ。われわれはその先を想像することは出来るが、そうすることは即ちわれわれ各々の文脈の中へと置き換える事であり、それは「その作品」の延長ではない。さらに、その置き換えは決定論を契機として含む「作品」を作り上げることに他ならないため、なおさら登場人物は自由になることはないのである。

 

 さて、ここで重要な問題が持ち上がってくる。すなわち、「単なるコンテクストの集合体が作品なのか?」という問いである。これは、より具体的に言えば、主人公が生死不明の結末を迎える作品において、その続きをわれわれが想像した時に、まさにわれわれ各自のコンテクストにその作品の結末が置き換えられるわけだから、この置き換えられたコンテクストは果たして「作品」と言えるのか?ということになる。

 これについての答えは未だ出ていない。しかし、ある種の全体論を取って、「作品」と「コンテクストの集合」には質的な差異があるとは言えそうである。なぜなら、「作品」には「コンテクスト」が含んでいないような要素を含んでいるかのように思われるからだ。たとえば、テーマや世界観などがそれにあたるだろう。これらはコンテクストの中に見られないはずである。

 

 以上、走り書きではあるが、「虚構作品内の登場人物に自由はあるのか?」という初めの問いに、「虚構内存在はその世界とかかわり合うための契機を持たないので、本質的に自由はない」と答える形で終えようと思う。