『神曲』:感想①

ダンテ『神曲』(完全版 平川祐弘河出書房新社 2010年)読みました。

 非常に面白かったのですが、読み返してみると、一読後の印象とは異なった面白さが次々と見出され、これらを統一的にまとめあげるのは難しいため、幾分か断片的な記述になってしまうと思います。

 まず「地獄篇」ですが、ここで最も面白い場面はやはり二十一、二十二、二十三歌だと思います。「地獄篇」は『神曲』全体を通じて劇的場面にあふれ読んでいて面白いという評価は一般的なようですが、私も、あの光の濃淡と言葉の想像力だけで形無き神と天使を詩った「天国篇」を読んだ後に、この「地獄篇」を読み返してみると、いかにそこが具体的な、目の前にありありと広がり、音だけでなくにおいや温度の感じまでもが伝わってくる暗黒の圏谷であるかがはっきりとわかりました。その具象性が、「地獄篇」の面白さの一端を担っていることは間違いないと思います。

 さて、地二十一歌は、汚職収賄の罪で地獄に落ちた者どもが、鉤爪状の槍をもった鬼たちに捕らえられ、液状に煮えたぎった瀝青(古代では船の継ぎ目を覆うのに使用された粘土、タールやチャンもその一種で、現代ではアスファルトのようなものらしい)の中に漬けられるという罰を喰らっている場面です。

 ダンテとウェルギリウスは、どのような罪で地獄に落ちた人々にどのような罰が与えられるのかを見たので、次の地へ向かおうとするのですが、そのための橋は崩れ去っていました。すると、

乞食が場所柄もわきまえず立ち止まり、勝手に物乞いをすると、その乞食の背中めがけて、犬どもが憤然と襲いかかるが、同じように荒れ狂った鬼どもが橋の下から飛び出して先生めがけて一せいに鉤を引っ掛けようとした(地二十一 平川訳 67~71) 

 のですが、ウェルギリウスは神の召命でダンテにあの世のすべてを見せて回ることになっていたので、鬼どもは手出しできませんでした。しかし、「鬼たちは鉤は下げたが、たがいにいうには、「俺があいつの尻を撫でるが、いいだろうな?」皆が答えた、「いいとも、冷やかしてやれ!」」(同上 100~102)と、鬼どもはこんな調子でダンテ一行にちょっかいをかけようとするのです。地獄の鬼の俗っぽい性格がありありと描写された、面白い場面ですが、これだけではありません。

 鬼の群れからダンテ達を案内するための一隊が編成され、この奇妙な道中は続きます。

「ああ、先生、ここに見えるこのさまは何事ですか?」と私がいった、「いや先生、先生が道を御存知なら、こんな連れは御勘弁願います。私たちだけで行きましょう。いつも慧眼の先生がお気づきにならなかったのですか? ほら、奴らは歯がみし、けわしい眉毛で私たちを脅かしています」すると先生がいった、「おまえ狼狽するな。奴らには思う存分歯がみさせるがいい。奴らの相手はゆでられて苦しんでいる連中だ」(同上 127~135) 

 鬼たちの調子はこうです。「左手の堤へ鬼たちは向かったが、出かける前にみな自分たちの隊長にむかって合図に舌でべえをしてみせた。すると隊長の方は尻からラッパをぷっと鳴らした。」(同上 136~139)

 『神曲』というと、作者ダンテ自身のいかにも政治的で厳格なイメージもあいまって、非常にまじめで俗なところなどないという感じがしますが、上を見て分かる通り、そんなことはありません。「地獄篇」は読んでいて楽しい作品です。反対に「天国篇」は「地獄篇」のような劇的・冒険的な面白さは少ないと思います。

 

 地二十二歌にはいると、ダンテも「ああ、恐ろしい道連れだ。だが、〔下世話にもいう〕「教会へは聖人と、飲屋へは呑兵衛と」」(地二十二 平川訳 15~14)といった具合で道を進んでいきます。すると、この鬼の一行から「仲間の蛙が潜った後、取り残された一匹同様」(同上 32)逃げ遅れた、ナヴァ―ラ王国生まれの男(チアンポーロというらしいが、詳細は不明のよう)が鬼の鉤に吊り上げられて捕まります。

 ダンテとウェルギリウスは「悪猫に摑まった鼠」(同上 58)のように鬼どもにいたぶられるこの男に、汚職収賄の罪で地獄のこの濠に落とされたイタリア人がいないか尋ねるのですが、彼は言葉巧みに「俺一人で七人は呼び寄せるから、鬼たちには退っていてほしい」と言います。鬼どもは、これはこいつが逃げるための嘘だと言うのですが、その鬼の中の一匹、アリキーノが「お前と俺たち全員とで逃げるか追いつくかの勝負をしよう」と言うのです。

ああ読者よ、聞いてくれ、空前絶後の勝負が起こったのだ。この案にはまるで気乗薄だった鬼をはじめ鬼たちがみな後ろへ目をそらした。その隙を巧みに見はからってナヴァ―ラの男は、大地にしっかりと両の脚をつけたとみるまに、跳躍一番、鬼の大将の腕から身をふりほどいて逃げだした。(同上 118~123)

 だまされたアリキーノはナヴァ―ラの男を追うのですが、「鷹が家鴨に襲いかかったものの家鴨がすばやく水中にもぐったような格好で、相手は徒労に憤然として上空へ引き返し」(同上 130~132)ていくのでした。

 衝撃的なのはこの後で、鬼同士の喧嘩が始まります。男にだまされて怒るカルカブリーナと、男を逃がしたアリキーノとの闘いが煮えたぎる瀝青の上で繰り広げられるのですが、二匹ともその中へ落ちていってしまいます。バルバリッチャは心を痛め、「瀝青に漬かった鬼どもに鉤をさしのべてみたが、二匹とももう皮ばかりか中身まですっかり灼けて」(同上 149~151)いました。

 さて、このどたばた騒ぎに乗じて、ダンテとウェルギリウスはこっそり鬼たちから離れていきます。ここで地二十二歌は終わりますが、地二十二歌には引用箇所の他にも動物を使った比喩表現がたくさんでてきます。融解した瀝青と羽の生えた悪魔という地獄を活き活きと描くために、水中の生物と空中の生物、襲われる側と襲う側という自然界でよくみられる光景が引き合いに出されています。とりわけ「地獄篇」には、当然ですが架空の生き物がたくさん登場します。その架空の生き物を生き物足らしめるために、自然界の動物の習性や生態、それも一個の生物のみの場合もあれば、複数の生物同士の関係の場合もありますが、いずれにせよダンテの観察眼あるいは生きた知識が、空想上の生物に文字通り命を授けていると言えるでしょう。

 

 地二十三歌に入ると、ダンテは不安になります。

「鬼たちは私たちがもとで、馬鹿にされ、散々な目にあい、笑い物にされたから、きっとひどく腹をたてているにちがいない。もし奴らの悪さ加減に怒りが加わったとなると兎に噛みつこうとする犬どころかずっとずっと狂暴になって後から追っかけてくるにちがいない」そう思うとぞっとして全身に鳥肌がたった。(地二十三 平川訳 13~19)

 ダンテははやく隠れましょうとウェルギリウスに促すのですが、彼によると、鬼どもが追ってこれるのは瀝青が煮えたぎるこの圏域のみであるから、ここから出て次の圏域に入ってしまえば鬼は追ってこられないのです。

 そうしているうちに鬼どもが翼を張ってダンテ一行を追っているのが見えてきました。それが見えると、

先生はすぐに私を抱きあげた。ちょうど、物音に目を覚ました母親が、近所に火の手があがったと見るや、自分よりも子供を気づかい、肌着一枚を身にまとう暇もあらばこそ、子供を抱えて一目散に逃げだす、そんな具合だった。(同上 37~42)

 

 ここが、私が地二十一から二十三歌の中で一番好きなところです。ウェルギリウスはこれまで、ダンテを様々な意味で導いてきました。時には不安に駆られるダンテを叱責したり励ましたり、ダンテ自らに問いの答えを見出させたり、地獄を案内しながら、ウェルギリウスはダンテの父であるかのように描かれてきました。しかし、ウェルギリウスはダンテの母でもあったのです。ここに込められている愛のほどは、ダンテのベアトリーチェに対するそれとはまた異なった愛だと思うのです。それは、輝くばかりの美しさをもった超越的な女性美、観る者の心を愛の炎で燃え上がらせる女性美とはまた別な、もっと身近で地上的な親子同士の愛だと思うのです。

ベアトリーチェは「天国篇」において、ウェルギリウスに代わりダンテを神と神の愛へ導きますが、その立場は超越者に近いものとなっています。対してウェルギリウスは、イエスが誕生する前に死んだ最も有徳な者が、その死後に行き着く地獄の辺獄(リンボ、ここには古代ギリシャ・ローマの英雄や詩人、哲学者が留まっている。イエスからの洗礼を受けていないために、地獄にいるが、ここには呵責や拷問は一切ない。)にいるのですが、神をただ賛美するだけでなく、確かにダンテを助けてくれます。地獄にある数々の険しい圏谷を越える手助けをしてくれます。ウェルギリウスただ一人が、『神曲』「地獄篇」においてはダンテの父であり母なのです。むしろ『神曲』においてはベアトリーチェなどは、ダンテの母でも父でもなく、聖母マリヤや天使に近い存在です。超越存在は精神の手助けはしてくれるかもしませんが、物質的な手足はしてくれません。もちろん「地獄篇」にも天使は登場しますし、地獄の城の門を天上の力で開け放ってくれましたが、まるでデウス・エクス・マキナのような都合のいい、非人格的な役割しか与えられていません。そもそも人間的ではないのです。しかし、ウェルギリウスは何ら超越的な力を持たず極めて人間的に、父や母のようにダンテの手助けをしてくれるのです。

ゆえにここの比喩は、単なる偶然でも思いつきでもないはずです。ウェルギリウスは確かに二親の愛をその心に抱いているのです。「先生は私を、旅の道連れというよりわが子のように胸に抱いて、その崖を走り落ちてくれたのだ。」(同上 49~51)

こうしてダンテ一行は鬼の追ってから逃げきり、次の圏域にたどり着いたのでした。

 

「地獄篇」はそうじて天上の抽象的な運動ではなく、地上の具体的な生物的な運動に則って描かれている様に思えます。そのような動物的活発さが、「地獄篇」をより面白く、よりドラマチックにしているのだとしたら、『神曲』の中でも「地獄篇」の評価が高いことはうなづけます。とはいえ、「煉獄篇」と「天国篇」それぞれに、固有の面白さがあるのも見逃してはいけないことですが、まとまりが良いので今回はここまでにしようと思います。