芸術の本質についての信念

 19世紀初頭のドイツ、芸術の本性に「生き生きとした力」を認めようとする潮流があった。それは、目に見える自然の奥底で迸る「根源的な自然の能産性」から汲み取られるものであった。この力に与ること、この力を模倣すること、これこそ芸術が使命とすることの一つだと考えられたのである。

 しかし、制作技術に習熟した者もそうでない者も、何かを生み出そうとする人間は、意識するにせよしないにせよこの自然の根源力に突き動かされ、それを模倣しながら動力源として制作を営むことに、いかなる必然性があるのだろうか。というのも、それはあってもなくてもよいからである。

 ところで、神による世界創造の必然性とはいったい何なのだろうか。また、当時のドイツ人たちが、根源的自然の能産性に何を読み取ろうとしていたのだろうか。

 世界が現にこのようにあり他のようにはないことの理由に考えをめぐらせるとき、われわれは現実存在する世界についての必然性を考えている。たとえば、神という最も賢く、最も善い存在者においては、思考することと行為することが一致するので、神がその頭脳のなかで思い描いた諸世界の観念の中でもっとも善い世界が、この現実世界として実現したのであるという説明がその一つである。このような考えのもとでは、どんなに過激な戦争、災害、犯罪行為が起きようとも、世界が他のありかたをしていればより悪なる結果に陥っていたという理由によって、それらを現実のものとして肯定することができる。もっとも、最善なる神の存在と神による世界設計についての強大な確信がなければ、ほんとうの意味で現実を肯定したことにはならないのであるが。

 とにかく、現に何かがあるということについて、それは突如として無から現れたのではなく、何かによって作られたのだという発想がある。なにかが存在する以上、それを存在させている原因があるはずだ。それは、万物の場合では神や自然などの第一原因となるものだろうし、道具や芸術作品の場合では人間である。では、それはどのようにして為されるのであろうか。

 たとえば、いま鍬を作るとしてみよう。鍬を作るためにまずそれを作る人間が必要である(作動因)。また、できあがった鍬のイメージがその製作者には求められるだろう、あるいは技術が受け継がれ洗練されているのであれば、設計図に則るだけでいいのかもしれないが、ともかくその道具の全体像がイメージされていなければならない(形相因)。さらに、そのイメージだけでは現実に道具を生み出せないから、木材や石、鉄といった素材が必要とされる(質料因)。最後に、そもそもその道具を作らねばならない目的が作者には要請される(目的因)。たとえばそれは、人間の手よりも効率的に畑を耕し、農作物をより大規模に栽培するためというような理由ないし目的である。

 しかしこのような記述には大きな困難がある。その困難とは、いかにして作者の頭の中の全体像が現実のものとなるかについての説明が抜け落ちているということだ。たしかに、鍬あるいは生活上の困窮に迫られて必要とされる道具についてはこれでいいだろう。なぜなら生活が目的となったときそれはひとを強力に動かすからである。しかし、絵画や音楽、詩についてはどうか。それはいかなる生活上の困窮から必要とされるのだろうか。これは文化の起源を問うことにもつながっている。また、頭のなかで完成している全体像を、なにゆえ現実のものとする必要があるのだろうか。これらの点において、道具と芸術に差異はあるのだろうか。

 神もまた、なぜその頭のなかで設計された世界を、そのままにしておくことなく、現実に存在させてしまったのだろうか。というのも、そのせいで却って神は失われることになるからだ。なぜなら、神という最も完全で永遠の存在者が実在するところには神以外のものは実在せず、また被造物は神と比べればより不完全であり、現に被造物が実在することは明白である以上、それらがあるところに神は実在し得ないからである。神なしで語るとすれば、なぜ様々な可能性の中からただ一つのものだけが実現しなければならなかったのか、その必然的理由はいまだ不明のままである。そしてまさしく、神がお隠れになってしまったわれわれの世界が現にこのようにあることの必然的理由は、不明なのである。

 神は死んだ、われわれが神を殺したとはよく言われることである。たしかに、原始的な生活様式と比べれば、少なくとも日本では政治と宗教が分離し、だれもが好きな宗教を信仰することが許され、誰かに何かを信仰することを強制されることもあまりない。とはいえ、盆や彼岸の文化は残され、形だけでも行うというひとびとも少なくないだろう。しかし、われわれの生活に共同宗教が入り込んでくる場面は全くと言っていいほどない。そのような実定的宗教は日本には存在しない。われわれは、キリスト教のなかに生まれ、キリスト教と共に暮らし、キリスト教とともに死ぬというようなことを経験していない。われわれの日々の生活規則に何らかの宗教が混入することなどないのである。あったとしても、それはまさしく個人においてのみしかありえない。それゆえに、各個人が別々の神と教義をうそぶくことで新興宗教が成立するのである。神の存在濃度は薄まってしまった。しかし、神はほんとうの意味での無に消え去ってしまったのではない。神は隠れているだけで、存在していないというわけではないのである。なぜなら、神が存在していなければ、全ては無であるからだ。

 だが、隠れている神を見出すなどというこれほどまでの矛盾があるだろうか。そのような神は決して見いだされないからこそ隠れていると言えるのであって、誰かに見出されてしまっては、もはや隠れていることにならないのである。換言すれば、われわれが神について何かを語るたびごとに、その語りから神は消え去るということだ。神は主語にも述語にもならない。

 神は絶対的に隠れている。それゆえにわれわれの世界は実在する。神が隠れることで世界がある。いつのまにかその世界の中に存在させられるわれわれは、この世界の外に出て神そのものを見ることはできない。また、世界の中の諸事物の原因を遡っていくことで見いだされる第一原因に、われわれは到達することができない。それは世界の外にある。それを見るためには世界の外にでなけばならないが、われわれにそれは不可能だ。したがって、世界が現にこのようにあることの必然的な理由は、存在しない。それは無限の暗黒の彼方に隠されている。

 もしそうであるならば、芸術とはいったい何を行っているのだろうか。神が己を隠すことで世界を創造したのだとしたら、芸術はいったい何を模倣して制作しているのであろうか。己を隠すことによる能産性。

 神はわれわれの眼に見えるものではない。では、自然はどうだろうか。根源的な産出力としての自然もまた、われわれの眼には見えない。根源力としての自然もまた、己自身を隠すことで、大地や海、大気、鉱物、植物、動物を生み出したのだとしたら、そのような自然は己を隠すことによって反対に、己自身の力をそれらにいきわたらせたように見える。神もまた、己を隠すことで自らを万物の中にいきわたらせたと言えるだろうか? 一般にこう言うことが許されるだろうか。天地を創造した根源的な力は、それ自身が虚無になることによって万物をその力のなかに含み込み、かつ、万物はそれぞれがあの力を自身の内に持っている、と。

 私は、おおいなるパラドクスを語っているのではないか。一方で、世界が現にこのようにあるべきで他のあり方ではならない理由は、神が隠れてしまったゆえに永遠に分からないままであると語っておきながら、他方で、世界がこのようにあるのは神が自身を隠したことによると語っている。それとも、私には世界が現にこのように存在することの理由が分かっているのであろうか。いや、神が隠れてしまった以上、それは不可能である。しかし、神がお隠れになることで世界は創造されたのである。でなければ、ただ神のみが実在し、他のもの全てはありえないことになってしまうのだから。

 このパラドクスはあえて解かぬまま放置しておこう。問題は、自身を隠すことによって何かを生み出すことについてである。もし、根源的な創造力が、己を隠すことですべてを生み出し、かつ、それらに自身の力をいきわたらせたのだとしたら、芸術家も当然みずからの内にその力を持つはずである。そしてその力に与ることで作品をつくるのだとしたら、根源力が万物にたいしてしたように、芸術家も己自身を隠すことによってその力を作品に分有させねばならない。

 しかし、作者が己自身を隠すとはいったいどういうことなのだろうか。それは、必然性と合理性による体系的な網目のなかに不意に訪れるもの、最後にやってくる偶然性ではないだろうか。あるいは、最後になって作品は自ずからその偶然性を生み出すことを以ってして完成するのではないだろうか。どんな傑作も、ただ偶然成功した。このように語ることはおかしなことだろうか。しかし、だからといって私が言いたいことは、芸術家は実はみな適当に制作をしているというようなことではない。芸術家には主観的にせよ客観的にせよ、制作活動を行うための様式が考えられる。どんな様式もなしに何かを作る活動は、やはり子供の遊びに過ぎない。そしてそれは芸術ではない。なぜならそれは徹頭徹尾、偶然でしかないものだからだ。対して、芸術においてはその制作活動それ自体を見れば、技術に基づいた明晰で意識的な活動、つまりある程度は必然的で合理的な活動である。しかし、これだけでは組み立て式の家具を作るのと何も変わらない。芸術が芸術であるためには、その活動をせしめる動機、すなわち、言語や概念を超えた言い知れぬ感情、計り知れぬ感動がなければならないのである。子供が作る砂の城と、絶えざる生成消滅の反復という世界遊戯に心を打ち砕かれた人間の創る砂の城とでは、結果が同じでもやはり何か決定的な差異があるはずだ*1。約言すれば、芸術家はほの暗い感動に突き動かさることで、明晰な制作活動を通じ、最後にその感動を作品において再現しようとする。意識をもって意識を乗り越えねばならない。この最後の工程、芸術家自身の賜物だともそうでないとも言えないようなもの、これこそ、偶然の産物だと言いたいのである。それは、私の意識的な活動の最終局面において、何か向こう側から、私ではないものの側から、到来するもの不意にやって来るもの、したがって、それは芸術家の制作計画に含むことのできないもの、主観によってあらかじめコントロールすることのできないものである*2。これこそ、古来より詩人が経験してきた、アポロンの矢に撃たれるということに違いない。したがって、芸術家はこの矢に二度撃たれる。一度目は、制作のきっかけとして。二度目は、作品の完成において。

 結局のところ、己を隠すことによる能産性とは、いったい何なのであろうか。私としてはこれを神秘的な脱我体験にのみ位置づけることはしたくない。むしろ、より一般的なレベルでの経験だと考えられる。あるいは、脱我経験がそもそも一般的なものなのかもしれない。「己を隠す」とは、経験の担い手たる自我を、知性の軛から感性と構想力に解き放つことだ。「それによって何かを生み出すこと」とは、感性と構想力に解き放たれた自我が、全経験を引き連れてふたたび知性へと結集していくことである。この知性は明らかに当初の知性とは別物である。感性と構想力が受け止める経験に極めて接近した知性はそれ内容だけでなく形式も作り変えられる。芸術家は、制作活動とその作品を通じて、世界の新たなアスペクトを切り開き、新たな経験を可能にさせる。そしてこれは、私が私ではないものと邂逅することでのみ可能なのだ。あらかじめ私が持っている世界への視点は有限なものにすぎない。しかし感性はその視点以上に世界を暗黙の裡に多様に捉えている。私は、固定化された知性の枠組みに留まっていてはならない。ぜひとも、それを投げ棄てて主観と客観が相互に目まぐるしく入れ替わる感性の世界へと降りていかなければならない。そこにおいて見出される私でないもの。これによってのみ、私は私でないものによって作り変えられ、新たなものではあるが同じ私となってその経験を引き連れながら知性へと帰還して、その経験を再現するような作品を作ろうとする。もちろん、誰もが作品を作りたくなるわけではない。しかし、たとえば、この経験を言葉で語ろうとしたり、身振りや表情で誰かに伝えたくなったりするといった、表現への欲求を駆り立てるという意味では普遍的なものである。たとえ、それが次の日にはなぜあれほど熱狂していたのか分からなくなってしまうものだとしても。

 しかし、神に二度目の矢は訪れるだろうか。恐らくないだろう。というのも、神は完全な存在者であるために、神が神以外のものに感動することが即ちそれらの創造であるからだ*3。しかしわれわれは不完全な存在者であるために、最初の感動をそのまま何らかの形で再現することはできないのである。だから二度目の矢が訪れることに賭ける。芸術とは、いくぶん真剣(ernst)な賭け(jeu)なのである。

 

 

*1:しかし、芸術家はもしかすると最後には子供にならなければならないのかもしれない。子供になることこそ己を隠し作品を完成させることなのだろうか。

*2:果たしてこれを「予感」することはできるだろうか?

*3:もし神がナルシス的であるならば、神は神自身に感動したことになる。これは一見もっともだが、自身を見ることで感動する神とそれに見られる神とはどれほど同一であると言えるだろうか。ここにはすでに、やはり神と神以外のものの同時存在の形式が見出されるのではなかろうか。

『神曲』:感想①

ダンテ『神曲』(完全版 平川祐弘河出書房新社 2010年)読みました。

 非常に面白かったのですが、読み返してみると、一読後の印象とは異なった面白さが次々と見出され、これらを統一的にまとめあげるのは難しいため、幾分か断片的な記述になってしまうと思います。

 まず「地獄篇」ですが、ここで最も面白い場面はやはり二十一、二十二、二十三歌だと思います。「地獄篇」は『神曲』全体を通じて劇的場面にあふれ読んでいて面白いという評価は一般的なようですが、私も、あの光の濃淡と言葉の想像力だけで形無き神と天使を詩った「天国篇」を読んだ後に、この「地獄篇」を読み返してみると、いかにそこが具体的な、目の前にありありと広がり、音だけでなくにおいや温度の感じまでもが伝わってくる暗黒の圏谷であるかがはっきりとわかりました。その具象性が、「地獄篇」の面白さの一端を担っていることは間違いないと思います。

 さて、地二十一歌は、汚職収賄の罪で地獄に落ちた者どもが、鉤爪状の槍をもった鬼たちに捕らえられ、液状に煮えたぎった瀝青(古代では船の継ぎ目を覆うのに使用された粘土、タールやチャンもその一種で、現代ではアスファルトのようなものらしい)の中に漬けられるという罰を喰らっている場面です。

 ダンテとウェルギリウスは、どのような罪で地獄に落ちた人々にどのような罰が与えられるのかを見たので、次の地へ向かおうとするのですが、そのための橋は崩れ去っていました。すると、

乞食が場所柄もわきまえず立ち止まり、勝手に物乞いをすると、その乞食の背中めがけて、犬どもが憤然と襲いかかるが、同じように荒れ狂った鬼どもが橋の下から飛び出して先生めがけて一せいに鉤を引っ掛けようとした(地二十一 平川訳 67~71) 

 のですが、ウェルギリウスは神の召命でダンテにあの世のすべてを見せて回ることになっていたので、鬼どもは手出しできませんでした。しかし、「鬼たちは鉤は下げたが、たがいにいうには、「俺があいつの尻を撫でるが、いいだろうな?」皆が答えた、「いいとも、冷やかしてやれ!」」(同上 100~102)と、鬼どもはこんな調子でダンテ一行にちょっかいをかけようとするのです。地獄の鬼の俗っぽい性格がありありと描写された、面白い場面ですが、これだけではありません。

 鬼の群れからダンテ達を案内するための一隊が編成され、この奇妙な道中は続きます。

「ああ、先生、ここに見えるこのさまは何事ですか?」と私がいった、「いや先生、先生が道を御存知なら、こんな連れは御勘弁願います。私たちだけで行きましょう。いつも慧眼の先生がお気づきにならなかったのですか? ほら、奴らは歯がみし、けわしい眉毛で私たちを脅かしています」すると先生がいった、「おまえ狼狽するな。奴らには思う存分歯がみさせるがいい。奴らの相手はゆでられて苦しんでいる連中だ」(同上 127~135) 

 鬼たちの調子はこうです。「左手の堤へ鬼たちは向かったが、出かける前にみな自分たちの隊長にむかって合図に舌でべえをしてみせた。すると隊長の方は尻からラッパをぷっと鳴らした。」(同上 136~139)

 『神曲』というと、作者ダンテ自身のいかにも政治的で厳格なイメージもあいまって、非常にまじめで俗なところなどないという感じがしますが、上を見て分かる通り、そんなことはありません。「地獄篇」は読んでいて楽しい作品です。反対に「天国篇」は「地獄篇」のような劇的・冒険的な面白さは少ないと思います。

 

 地二十二歌にはいると、ダンテも「ああ、恐ろしい道連れだ。だが、〔下世話にもいう〕「教会へは聖人と、飲屋へは呑兵衛と」」(地二十二 平川訳 15~14)といった具合で道を進んでいきます。すると、この鬼の一行から「仲間の蛙が潜った後、取り残された一匹同様」(同上 32)逃げ遅れた、ナヴァ―ラ王国生まれの男(チアンポーロというらしいが、詳細は不明のよう)が鬼の鉤に吊り上げられて捕まります。

 ダンテとウェルギリウスは「悪猫に摑まった鼠」(同上 58)のように鬼どもにいたぶられるこの男に、汚職収賄の罪で地獄のこの濠に落とされたイタリア人がいないか尋ねるのですが、彼は言葉巧みに「俺一人で七人は呼び寄せるから、鬼たちには退っていてほしい」と言います。鬼どもは、これはこいつが逃げるための嘘だと言うのですが、その鬼の中の一匹、アリキーノが「お前と俺たち全員とで逃げるか追いつくかの勝負をしよう」と言うのです。

ああ読者よ、聞いてくれ、空前絶後の勝負が起こったのだ。この案にはまるで気乗薄だった鬼をはじめ鬼たちがみな後ろへ目をそらした。その隙を巧みに見はからってナヴァ―ラの男は、大地にしっかりと両の脚をつけたとみるまに、跳躍一番、鬼の大将の腕から身をふりほどいて逃げだした。(同上 118~123)

 だまされたアリキーノはナヴァ―ラの男を追うのですが、「鷹が家鴨に襲いかかったものの家鴨がすばやく水中にもぐったような格好で、相手は徒労に憤然として上空へ引き返し」(同上 130~132)ていくのでした。

 衝撃的なのはこの後で、鬼同士の喧嘩が始まります。男にだまされて怒るカルカブリーナと、男を逃がしたアリキーノとの闘いが煮えたぎる瀝青の上で繰り広げられるのですが、二匹ともその中へ落ちていってしまいます。バルバリッチャは心を痛め、「瀝青に漬かった鬼どもに鉤をさしのべてみたが、二匹とももう皮ばかりか中身まですっかり灼けて」(同上 149~151)いました。

 さて、このどたばた騒ぎに乗じて、ダンテとウェルギリウスはこっそり鬼たちから離れていきます。ここで地二十二歌は終わりますが、地二十二歌には引用箇所の他にも動物を使った比喩表現がたくさんでてきます。融解した瀝青と羽の生えた悪魔という地獄を活き活きと描くために、水中の生物と空中の生物、襲われる側と襲う側という自然界でよくみられる光景が引き合いに出されています。とりわけ「地獄篇」には、当然ですが架空の生き物がたくさん登場します。その架空の生き物を生き物足らしめるために、自然界の動物の習性や生態、それも一個の生物のみの場合もあれば、複数の生物同士の関係の場合もありますが、いずれにせよダンテの観察眼あるいは生きた知識が、空想上の生物に文字通り命を授けていると言えるでしょう。

 

 地二十三歌に入ると、ダンテは不安になります。

「鬼たちは私たちがもとで、馬鹿にされ、散々な目にあい、笑い物にされたから、きっとひどく腹をたてているにちがいない。もし奴らの悪さ加減に怒りが加わったとなると兎に噛みつこうとする犬どころかずっとずっと狂暴になって後から追っかけてくるにちがいない」そう思うとぞっとして全身に鳥肌がたった。(地二十三 平川訳 13~19)

 ダンテははやく隠れましょうとウェルギリウスに促すのですが、彼によると、鬼どもが追ってこれるのは瀝青が煮えたぎるこの圏域のみであるから、ここから出て次の圏域に入ってしまえば鬼は追ってこられないのです。

 そうしているうちに鬼どもが翼を張ってダンテ一行を追っているのが見えてきました。それが見えると、

先生はすぐに私を抱きあげた。ちょうど、物音に目を覚ました母親が、近所に火の手があがったと見るや、自分よりも子供を気づかい、肌着一枚を身にまとう暇もあらばこそ、子供を抱えて一目散に逃げだす、そんな具合だった。(同上 37~42)

 

 ここが、私が地二十一から二十三歌の中で一番好きなところです。ウェルギリウスはこれまで、ダンテを様々な意味で導いてきました。時には不安に駆られるダンテを叱責したり励ましたり、ダンテ自らに問いの答えを見出させたり、地獄を案内しながら、ウェルギリウスはダンテの父であるかのように描かれてきました。しかし、ウェルギリウスはダンテの母でもあったのです。ここに込められている愛のほどは、ダンテのベアトリーチェに対するそれとはまた異なった愛だと思うのです。それは、輝くばかりの美しさをもった超越的な女性美、観る者の心を愛の炎で燃え上がらせる女性美とはまた別な、もっと身近で地上的な親子同士の愛だと思うのです。

ベアトリーチェは「天国篇」において、ウェルギリウスに代わりダンテを神と神の愛へ導きますが、その立場は超越者に近いものとなっています。対してウェルギリウスは、イエスが誕生する前に死んだ最も有徳な者が、その死後に行き着く地獄の辺獄(リンボ、ここには古代ギリシャ・ローマの英雄や詩人、哲学者が留まっている。イエスからの洗礼を受けていないために、地獄にいるが、ここには呵責や拷問は一切ない。)にいるのですが、神をただ賛美するだけでなく、確かにダンテを助けてくれます。地獄にある数々の険しい圏谷を越える手助けをしてくれます。ウェルギリウスただ一人が、『神曲』「地獄篇」においてはダンテの父であり母なのです。むしろ『神曲』においてはベアトリーチェなどは、ダンテの母でも父でもなく、聖母マリヤや天使に近い存在です。超越存在は精神の手助けはしてくれるかもしませんが、物質的な手足はしてくれません。もちろん「地獄篇」にも天使は登場しますし、地獄の城の門を天上の力で開け放ってくれましたが、まるでデウス・エクス・マキナのような都合のいい、非人格的な役割しか与えられていません。そもそも人間的ではないのです。しかし、ウェルギリウスは何ら超越的な力を持たず極めて人間的に、父や母のようにダンテの手助けをしてくれるのです。

ゆえにここの比喩は、単なる偶然でも思いつきでもないはずです。ウェルギリウスは確かに二親の愛をその心に抱いているのです。「先生は私を、旅の道連れというよりわが子のように胸に抱いて、その崖を走り落ちてくれたのだ。」(同上 49~51)

こうしてダンテ一行は鬼の追ってから逃げきり、次の圏域にたどり着いたのでした。

 

「地獄篇」はそうじて天上の抽象的な運動ではなく、地上の具体的な生物的な運動に則って描かれている様に思えます。そのような動物的活発さが、「地獄篇」をより面白く、よりドラマチックにしているのだとしたら、『神曲』の中でも「地獄篇」の評価が高いことはうなづけます。とはいえ、「煉獄篇」と「天国篇」それぞれに、固有の面白さがあるのも見逃してはいけないことですが、まとまりが良いので今回はここまでにしようと思います。

『ユリシーズ』覚え書き

 ジョイスの『ユリシーズ』について思いついたままに書いていこうと思います。

 『ユリシーズ』という小説はホメロスの『オデュッセイア』を下敷きに書かれている。約2500年の時を経て、寝取られ亭主と若き耽美的神学者を主人公にした物語に蘇る大英雄の冒険譚。オデュッセウスの旅路はダブリンのまったく何の変哲もない1日へと変貌する。神話と日常。この極限の隔たりが、ジョイスの手によって文字通り「一個の世界」に収斂されていく。

 われわれの中には恐らく「神話の世界など大昔の世界であってこの現代において神々などもはや存在しないし、また、神の存在さえも単なる伝説に過ぎず実在したかどうかなど分からないではないか」と考えているひともいるのではなかろうか。確かに、われわれはこの目で神を見たことはない。たとえ見えたとしても、幻覚だと言われるだろう。しかし、ここではそのような感覚的なレベルの話をしたいのではない。私がしたいのは、神話の世界が言語に宿っているということと、それは現代においても確実に生きているということだ。

 そのことを体現している作品がまさに『ユリシーズ』だと言うのだ。つまり、われわれがそれを読むとき、神話と日常あるいは神性と人間の両方を「同時に」見るのである。

 『ユリシーズ』を単なるダブリンの1日を描いた物語としても、『オデュッセイア』の現代版としても読むことはできない。いや、確かにその両方どちらとしても読むことができるからこそ、それは決してできない。なぜなら、どちらの読みを取ったとしても「神話」か「日常」のどちらかを取りこぼしてしまうからだ。

 ゆえに、『ユリシーズ』には「神話」と「日常」の両者が混在している。この混在の仕方は単に「ここからこの部分は神話」だとか「この部分は単なる日常」といった混ざり合い方ではない。そうではなく、全体において、枠組みにおいて両者が混ざり合っているのである。

 ここにおいて「神話」と「日常」はもはや区別できない。われわれに可能なことは渾然一体として何かから、部分的にまとまったものに対して「日常」や「神話」という認識を当てはめることだけである。

 『ユリシーズ』がまったくもって面白い点は、神話を日常に接続したことである。われわれが毎日を生きるこの日常世界。目で見て、耳で聞き、肌で触れることのできるこの世界。それはまったく貧しいものではない。確かに上澄みは単純で見通しやすいものかもしれないが、しかし、根底に沈み溜まっているものはそうではない。そこには計り知れない豊穣性が宿っている。『ユリシーズ』の試みは、まさに沈殿物をかき乱して上澄みと混ぜ合わせることにあったと言える。

 だとすれば、神々が暮らした世界は未だに失われていない、いや、失われることなどあり得ない。われわれは今日においても、眼前に広がる光景に神々や英雄を見出すことができる。なぜなら世界はそれほどまでに豊かだからだ。このことは単に視覚的に神を見出すなどという次元の話ではなく、ある種のリアリティを伴って神々の住まうこの世界に「私」も共に住まうということだ。確かにこの現代的世界において神話の出来事がそのまま起こるということはない。にもかかわらずわれわれは日常に神話を見出す。

 科学はこの世界のアスペクトを一方では引き剥がしたが、他方では張り直した。このことは、世界解釈の枠組みとしての科学では汲み尽くせない世界の豊かさがあることに他ならない。同時に、他の世界解釈の枠組み(たとえば散々述べてきた「神話」や「日常」)においてもそれが「枠組み」である以上、必然的にそれから溢れ出るものがある。であるならば、『ユリシーズ』という枠組みで世界を解釈しようとすることもまた、その枠に収まりきらないカオス的存在を完全に捉えることはできないということになるだろう。そしてこのことは全く正しいと思う。「科学」「哲学」「文学」を、世界を解釈するという枠組みとして用いる限り、それが枠組みである以上は、完全で絶対的に正しい唯一の枠組みたりえない。

 むしろわれわれは、枠組みなしに、解釈なしに、世界そのものと端的に触れ合っているのではないか。内に豊穣性を宿すカオス的世界そのものとの戯れこそが、あらゆる運動、生成変化の根源なのではないか。

 神は死んでいない。神は生きている。言語の内に、概念の内に、世界の内に。しかし、神は絶対ではない。すべては等価である。英雄の冒険譚がわれわれの退屈な毎日であるということ。神々の世界が人間の世界であること。二つの項そのものの価値は等しい。唯一価値があると言えそうなものは「それらは等しい」と語ることのできる「視点」である。それこそが『ユリシーズ』的視点なのだ。

文学理論:「方法なき方法」についての試論

 小説を書くときに、皆さんはどういったことをあらかじめ考えてから書き始めるでしょうか。世界観、舞台設定、キャラクターのプロフィール、物語の展開図、断片的情景のメモ、文体の構造、などなど、作者によって実に様々なことが前提とされていることでしょう。

 そこで私が提案したいのは、そういったことを「あらかじめ」考えておく、もっとはっきり言えば、理論的な一貫性や統一性を定めないまま書き始め、書き終えるということです。

 これを、なんの理論も前提せずに書くという意味ではなく、沈黙のうちに蠢いている言葉をそのままに、なにかを「なにか」としてアイデンティファイせずに書くという意味で、「方法なき方法」と呼びたいと思います。

 この方法の素晴らしい点は、多層的であるが同一的でもある「世界」をありのままに描き出すことができることにあります。

 シュールレアリスムの「自動記述」は折角、無意識を動的なまま写し出すことに成功していたのに、それをわざわざ正気状態の視点から上塗りしてしまったことにその欠陥の全てがあると言えます。

 しかし、「方法なき方法」は推敲など必要としません。すべてをあるがままに並置していくのですから。「推す」か「敲く」か、どちらが相応しいのかという苦悩に縛られることはそもそも起きないのです。「いま、そのとき」書いたものが相応しいのです。

 とはいえ、人間精神や世界の運動が訂正や修正、反省を行わないということはあり得ません。「方法なき方法」は一見、すべてを肯定する書き方のように思えますが、そうではありません。もちろん、「方法なき方法」も文章に修正を施すことがあるでしょう。しかし、それは「捻ること」、その文章の別のアスペクトを露わにしてあげることなのです。よって、「方法なき方法」では何かを消すことはありません。多様性を多様性のまま持続するためには、「推す」か「敲く」かではなく、「推すと敲く」という表現が適切なのです。

 「方法なき方法」が描き出すものは、この世界のアスペクトの多様さです。ただそれだけを表現したいのです。ここでいう世界には「私」も含まれています。決して、認識する「私」が「世界」「対象」から分離してはならないのです。絶えず、それらとの連関の中に投げ込まれている「私」と、その連関全体としての「世界」。ですから、「この私」の、あるいは「作者」の精神世界の豊かさといったものなどには、この理論においてまったく価値がありません。「この私」=「作者」の個性など意味を持たないのです。

 さて、当然の疑問として、では「方法なき方法」はジョイスやウルフなどの意識の流れ的手法といったいどこが違うのか?ということが挙げられるでしょう。

 この問いには、以下のように答えたいと思います。

 彼らの手法は一般に、外的世界のリアリズムから内面世界のリアリズムへの転換として説明されます。つまり、確固としてある客観世界を再現(ミメーシス)するのでなく、世界を認識するその精神作用あるいは主体を再現(ミメーシス)するという転換です。

 しかし、先にも述べた通り、この認識する主体の精神は世界から原理的に分離されてはならないのです。むしろ反対に、世界と主体は不可分の動的連関の中にあって、絶えず更新され続けているのです。よって、ジョイスやウルフが本当にもしも、一般的に言われているように内的世界を再現しているのであれば、「方法なき方法」は内的でも外的でもない、世界そのものを再現していると言えるでしょう。

 ところで、誤解があるといけませんからあえて述べておくと、この文章は「方法なき方法」を用いて書かれてはいません。修正の痕跡を残すこともしておりませんし、様々な理論を前提してこの試論を構築しています。つまり、この試論は「方法なき方法」をメタ的な視点から述べているということです。

 メタ的な視点から見るということは、それが何であるかを思考するということです。しかし、「方法なき方法」の実践においては、それが何であるかは意識されません。同時に、小説のための様々な理論もはっきりと限定して適用しようとはしません。それらを混沌のうちに無限定なものとして、明確な形を与えることなく書くこと、これが「方法なき方法」なのです。そして、それが何であるかを問うことをしないということは、極めて「日常的」な営みであるといえます。「方法なき方法」とは、そういった意味においてはある種の原始的な創作行為であるといえるのではないでしょうか。

 

プラトンの詩人批判について

 プラトンの詩人批判にはおおよそ次の二つがある。

イデアという理想世界がまずあって、現実世界はその劣化コピーであるから、その現実世界を写しとって表現(ミメーシス)する詩人は、二重の劣化を抱えている。

②詩人が詩を詠うときは、狂乱状態にありながら神の言葉を聞いて、それを人間の言葉に置き換えているのだから、詩人自身は自分が何を語っているのか知らないのである。

 私が初めてこれらの詩人批判を聞いた時、プラトンがいったい何を語っているのか分からなかった。あるいは、本当にプラトンがこのようなことを語っているのだとしたら、とんでもない暴論だとも思った。

 しかし、あるとき放送大学「西洋芸術の歴史と理論(’16)」の第二回「プラトン美学ー文学の深い可能性ー」を見て、まさに自分がいかにごくごく浅いプラトン理解をしていたかを痛感した。

 というのも、このテレビ講義では、以上のようなプラトンの詩人批判を踏まえたうえで、担当教員である青山昌文先生が、実践詩人である高橋睦郎氏にこのプラトンの考えについてのインタビューを行い、そのインタビューの中で以下のようなことが語られたからである。

 ――プラトンが批判したのは「いわゆる詩人」「雰囲気詩人」である。というのも、そのような詩人はありもしない自己を個性として表現し、個人が経験してきた苦しみ・地獄を現わしているからで、実はこれは芸術からは最も離れた営みであるからだ。真の詩人とは、そういった一般に個性と呼ばれるものを表現において超越し、没個性に至ることでその地獄に救済をもたらすものでなければならない。そのようにして考えてみれば、狂気のうちに神の声を聴くということは、まさしく、個を脱して世界(普遍的な森羅万象の本質)へと至ることであり、また、それは単なる狂気ではなく、神の声を極めて鋭く人間の言葉に置き換えるという理性的なプロセスを経るのであるから、真の詩人は狂気(ホメロス)と理性(ソクラテス)の両方を兼ね合わせていなければならないのである。(私が噛み砕いて記述したものなので、氏の叙述とは必ずしも一致しないだろう)

 

 この語りにはたしかに、高橋氏の詩の理論が組み込まれている。しかし、そうであっても、これがプラトンの詩人批判に別側面から光を投げかけていることには間違いがない。つまり、プラトンの批判対象は「いわゆる詩人」であり、「真の詩人」を批判しているのではまったくないということである。

 私が解釈したところによれば、前者は自己・個性・自分が自分であるという性質を志向している。しかし、「私が私である」ということはこの世界についての事実であり、創作を始めるにあたる前提にすぎない。その前提をいくら掘り返しても何も出てこないわけで――なぜなら、その前提の向こうには何も無いから――そのような無を開示したところで、個々人の経験における苦悩・絶望・憤怒の吐露に終わってしまう。

 私は別に、そのような感情を全く軽視しているわけでも、それらを抱くことを禁じているわけでもない。つまり、「私が私である」ということは自明の前提として、皆がスタートして生きており、「私」はその人生において様々な経験を蓄積していくだろう。それは、社会に対するやるせなさ・怒り・諦めかもしれないし、生まれてきたことの喜びかもしれないし、救済していくれる神の不在への嘆きかもしれない。

 しかし、そのような経験をそっくりそのまま、言葉のうえで表現してしまっては、単なる感情の吐き出しに終始し、遂には誰のためでもない物語(自分のためでさえないのではないだろうか)に成り果ててしまうだろう。

「ありもしない自己」とはそういう意味においてである。つまり、もとより自己ははっきりしているので、そこに何か個性・オリジナリティと呼ばれるような他なるものを探究しようとしても、自己は自己なのであるから、他なるものであるということはあり得ないので、個性が見つからないのは当然の帰結である。

 これは私の考えだが、そもそも、「個性」や「オリジナリティ」という言葉は評価語であり、「私」以外の誰かからもたらされるものである。それを、自分一人で探し求めようとしても無理な相談であろう。

 そのようなわけで、異他的な自己を志向して表現されたものは、実は、無を媒介にして経験が表されていると言えるのであるが、では「真の詩人」はどうなのであろうか?

 これも、私の解釈によるが、真の詩人は「世界」を志向している(いや、正確に言えば「世界」から志向されている?)と言える。ここでいう世界とは「私」ではないものの総体である。「私ではないものの総体」に何が属するのかは個々人が経験してきたことによって決まるだろう。

 とにかく、この「世界」というのは、「私」の方からは絶対的に隔絶している「異他的なるもの」なのであるが、反対に「世界」というのは、「私」を含めてあらゆるものを内包した全体(それが物であれ観念であれ)であるから、「世界」の方から「私」の方へやってくることは可能である。つまり、こちら側から何らかの方法でそういった「世界」と合一するというのではなくて、「世界」の方から詩作の原動力となるような美しさを伴って不意にやってくるということである。

 加えて言えば、真の詩人が語るのは「世界」の本質である。「世界」が他なるものの総体であれば、べつにその世界からいかなる観念を捨象することも可能であるが、しかし、そのような「世界」を観察する人間が詩人になれるだろうか? むしろ、詩人が語るのは、「世界」の内側に超越した概念すなわち本質なのであって、別に「世界」そのものを語るのではない。

 個々人が世界をどのように見るのかはひとによって様々であるだろうが、それでは、主観と一体一対応の世界という構図ができあがってしまい、結局のところ、「自己」にも「世界」にも「一個性」がまとわりついてくることになる。何が言いたいのかというと、「真の詩人」は決して、いわゆる詩人が「自己」について語るのと同じように、「世界」について語っているのではないということだ。

 ここでは、最早「世界」という言葉は適切ではないように感じられる。なぜなら、「世界」という言葉は、何か表層にある共通のものという印象がするからだ。よって、「真の詩人」が志向しているものは、実際には「世界の本質」であると言い直さなければならない。個々人が見ている「世界」は相対的であるが、しかし、それらの中においてもやはり絶対的なもの、あるいは、われわれに「世界」を与えているところのものとでも言えばいいのだろうか。

 そういった、ある種、普遍的で本質的なものを志向し(しかし、この志向性はその対象そのものに到達することなく空振りに終わり続ける)ふとした瞬間に、まさに世界の本質から前言語的な何かを受け取り、それを極めて理性的に人間の言葉で置き換える、これが「真の詩人」のあるべき姿であるとするならば、こういった疑問が湧いてくるであろう。普遍から何かを受け取るということが没個性であるならば、それを人間の言葉で語りなおすことは逆に個性に戻ってきてしまっているのではないか? 

 この問いに答えることは簡単である。「いわゆる詩人」が雰囲気で終ってしまうのは、自己の内にあるはずもないない「自己」を求め続け、そういった普遍を経由していないからであり、「真の詩人」は普遍を経由して理性的に人間の言葉で表現しなおしているのであるから、その限りでは「個」に留まっているが、しかし後者のそれは前者の表現する「個」とはまったく別様の「個」なのである。(ただし、ここにはある種の独我論的な問題が潜んでいるのであるが、それはまた別の機会に)

 そもそも、「真の詩人」が留まっている「個」というのは、創作行為の大前提である「私は私である」というまったくもってトリヴィアルな事実のレベルである。そして、「真の詩人」はこれを表現しようとしているのではない。これをいくぶん捻じ曲げて表現しようとするのは「いわゆる詩人」の方である。

 まとめると、プラトンが批判した詩人は、「自己」というどこを探しても見つからないような無を志向し表現しようとする「いわゆる詩人」あるいは、この「世界」そのもの(決してその深層まで迫っていかない)をそのまま表現しようとする「いわゆる詩人」なのであり、決して、狂気の内に神(「世界の本質」)の声を聴き、理性によって人間の言葉に置き換える「真の詩人」ではない。それどころか、そういった神の声を人間の言葉で再現(ミメーシス)しようとする「真の詩人」は、ホメロスがそうであったように、当時の古代ギリシャ共同体において、非常に高く評価されたのである。このように見てくれば、「詩人は自分が何を語っているのか知らないのである」という言明は、詩人全体に対する批判というよりも、当時の吟遊詩人の在り方一般について述べたものであるということも言えるのではなかろうか。

‘Ghost Under the Light’について

‘Ghost Under the Light’

The tendrils of my hair illuminate beneath the amber glow.
Bathing.
It must be this one.
The last remaining streetlight to have withstood the test of time.
The last yet to be replaced by the sickening blue-green hue of the future.
I bathe. Calm; breathing air of the present but living in the past.
The light flickers.
I flicker back.

 

 これは"Doki Doki Literature Club!"というゲームに出てくる詩なのだが、それは置いておいて詩自体を見てみると、すごく寂しい感じがする。しかしそれと同時に安心感もある。何故か。

 琥珀色の光が暖色であること、Bathing,batheが与える入浴のイメージ(陽光を浴びるという意味もあるみたいなので温かいものに浸る感覚が強いのかもしれない)、街灯の光の揺らめきと幽霊のゆらゆらした存在感が重なり合うこと、などなど…… 

 でも一番はやっぱり、幽霊もこの最後の1つまで残った街灯(たぶんガス灯) も世界の進む速度に置いていかれた存在者であるというこの共通点が、かくも絶妙な効果を生み出すのだと思う。例えるなら、滅びゆく世界で心の通じ合った者同士が結末を受け入れ静かに命の終わりを迎える、そういった感じ。

 

他の方がどんな訳をしてるのか調べてみたところ、ある訳では最後の二行を街灯の光が揺らめいたことに対して幽霊も揺らめき「返す」といったニュアンスでbackを取っている。つまり、この奇妙な二者間に奇妙なコミュニケーションを読み込んでいるのだが、これまた非常に面白い。

 私が最初に読んだときは、むしろ三人称的な視点から街灯の光が前景に、半透明な存在である幽霊を後景(back)に置いて、二つの透き通った存在者が琥珀色の温かい光に包まれ一体化していく、そういった場面を思い浮かべた。

 ここに二通りの見方があると思う。一つは、幽霊の純粋な一人称視点からこの詩は語られているという見方。もう一つは、「私」という確固とした存在者(≒作者)が詩の外の世界に存在しており、その人物の脳内風景としてこの詩が三人称的一人称視点で語られているという見方。

 まあ、どちらも大差ないといえばないのだが、前者の見方では作品世界が閉じていて外部が存在しないが、後者ではある種の比喩・寓話として作品世界が提示されていることから、物語行為が若干違うと思うのだが、物語行為の形式だけ見ても何がどう違うのかよく分からない。むしろ、「私」を読みこむかどうかは読書行為なんじゃないかとも思うし、どうなんだろう。

 

 しかし、改めて見ても面白い。「街灯」と「幽霊」の二語だけで既に、場面が夜であること・他に人気がないこと・静けさに包まれていること等が間接的に表現されている。

「完結した孤独」つまり、物語世界において核となるテーマ、テーゼ、ディスクールをより少ない言葉だけで語る、語れてしまう。語らなくても良いことはバッサリ切り捨ててしまっても良いんだという精神。語るべきこと、必然的に語らねばならないことのみを語る。

 表現するという営みにおいて、このことはとても重要だと思った。なぜなら、そこには他人の目が無いからだ。上手く書こう、上手く見られたいという虚栄心が無いからだ。

 こういうものを表現したい、だから表現した。もちろん、ディテールはそれなりに必要だけれど、枠組みはこれぐらいシンプルでも十分なんじゃないかなあ、と、そう思わせてくれる作品がこの詩だった。

 

  

 

 

 

 

 

虚構作品の登場人物に自由はあるのか?

 去年の冬頃から、「虚構作品内の登場人物に自由はあるのか?」という問いに縛られている。今さらになって基本的なことが確認できたのでメモ書き程度にここに記しておきたいと思う。

 

 ロラン・バルトが「作者の死」を宣言したことは有名である。これによれば、作者が死ぬことにより作品はテクストとして読者に解放され、様々な文脈に置きなおされることが可能となる。

 であれば、例をあげると、『山月記』で虎に変身することのなかった李徴や、オフィーリアが死ぬことのない『ハムレット』をわれわれは創作する事が出来る。ということは、作者の死によって作品内の登場人物は作者の絶対的支配から逃れ、自由に生きる権利を手に入れたと言えるだろう。

 もちろん、バルトはそのようなことを主眼として「作者の死」を宣言した訳ではない。しかし、「虚構作品における登場人物の自由」を考えてしまう私にとってこの考えは非常に魅力的に見えるのだ。

 だが、ここで一旦立ち止まって考えてみる必要がある。私は先ほど、作者の死により登場人物は自由を獲得したと述べた。しかしこれは本当のことだろうか?というのも、確かに登場人物は「その作品」の「その作者」からは解放されたかもしれないが、再び別の作者の作品に置きなおされてしまうのであればやはり自由はないと言えるからだ。これでは、人形劇における人形に糸が付いたまま人形使いが交代しただけでのようなものではないか。

 以上の事から、私は「虚構内の登場人物に自由は無い」という確信を得た。なぜなら、「作者」が登場人物の自由を剥奪しているのではなく、「作品」が本質的に登場人物から自由を奪っているのである。

 例えば、自由意思と決定論をテーマにした作品において、作品の主旨としては「人間はすべからく自由である」ということを述べていても、その作品内の登場人物がいつ、どこで、なにを、どのように、なぜ行うのかは決定してしまっている。なぜならそれは一個の「作品」であるからだ。たとえそれが、未完結であろうが、続編が予告されていようが、別の作者が代筆していようが関係ない。それが「作品」であるというまさにそのことによって、作品内の登場人物に起こることは決定されてしまうのである。

 このことを換言すれば、「作品」は決定論を契機として含んでいなければならない、ということになる。そうでなければ「作品」は「作品」であるとは言えない。芥川龍之介の『羅生門』は何回読んでも、下人は老婆と出会ってしまう。もちろん、下人が老婆と出会わない『羅生門』を書くことはできる。しかし、その場合でも、それを何回読もうと下人は老婆と出会わないのである。

 

 この確固たる事実――虚構内の登場人物には自由がないということ――を確認するにあたり、現実のわれわれの在り方と比較して、作品に登場する人物の在り方と「虚構内存在」と呼びたいと思う。

 われわれ人間は「世界内存在」として、世界とのかかわり方をあれこれ考える事ができる。確かに、実際には習慣・制度・先入見等さまざまな経験的束縛をうけるため完全に自由に世界と関わることはできないかもしれない。私が今から宇宙飛行士を目指そうとしても、私自身の身体的虚弱や金銭面の問題、両親への負担などを考え合わせると、やはり妥当で実現可能な他の職業を選択するだろう。しかし、可能的には宇宙飛行士や大統領としての自分の在り方を想像できることから、われわれは本質的には世界とのかかわり方について自由なのである。むしろ、この自由があるからこそ、子供に将来の夢を聞くと「お花屋さん」や「プロサッカー選手」だけでなく、「あめ玉」などの答えも返ってくるのである。

 では、「虚構内存在」についてはどうであろうか。端的に言えば、「虚構内存在」はその虚構世界に対しての在り方はあらかじめ決定されており、むしろ世界の一部として埋め込まれていると言える。つまり、「ある舞台の上の登場人物」なのではなく、舞台と登場人物は一体となっており、あるいは設定・テーマ・世界観などを含めて「作品」という大きな全体をなしているのである。

 そういう意味でも「虚構内存在」に自由はない。「虚構内存在」が虚構世界に対してその在り方を決定することなど不可能である。それは、作者、作品あるいは読者によって一通りに決まっている。なぜなら、「作品」には始まりがあり終わりがあるからだ。

 たとえ、主人公の生死が不明であるかのような終わりを迎える作品であっても、主人公の身にどのようなことが起き、どのように振る舞ってきたのかは決定している。生きているか死んでいるか分からないような終わり方は、まさにそれで終わりなのであって、「生きているか、あるいは死んでいるかのいずれかである」とさえ言えないだろう。なぜなら「作品」はそこで終っているからだ。われわれはその先を想像することは出来るが、そうすることは即ちわれわれ各々の文脈の中へと置き換える事であり、それは「その作品」の延長ではない。さらに、その置き換えは決定論を契機として含む「作品」を作り上げることに他ならないため、なおさら登場人物は自由になることはないのである。

 

 さて、ここで重要な問題が持ち上がってくる。すなわち、「単なるコンテクストの集合体が作品なのか?」という問いである。これは、より具体的に言えば、主人公が生死不明の結末を迎える作品において、その続きをわれわれが想像した時に、まさにわれわれ各自のコンテクストにその作品の結末が置き換えられるわけだから、この置き換えられたコンテクストは果たして「作品」と言えるのか?ということになる。

 これについての答えは未だ出ていない。しかし、ある種の全体論を取って、「作品」と「コンテクストの集合」には質的な差異があるとは言えそうである。なぜなら、「作品」には「コンテクスト」が含んでいないような要素を含んでいるかのように思われるからだ。たとえば、テーマや世界観などがそれにあたるだろう。これらはコンテクストの中に見られないはずである。

 

 以上、走り書きではあるが、「虚構作品内の登場人物に自由はあるのか?」という初めの問いに、「虚構内存在はその世界とかかわり合うための契機を持たないので、本質的に自由はない」と答える形で終えようと思う。