‘Ghost Under the Light’について

‘Ghost Under the Light’

The tendrils of my hair illuminate beneath the amber glow.
Bathing.
It must be this one.
The last remaining streetlight to have withstood the test of time.
The last yet to be replaced by the sickening blue-green hue of the future.
I bathe. Calm; breathing air of the present but living in the past.
The light flickers.
I flicker back.

 

 これは"Doki Doki Literature Club!"というゲームに出てくる詩なのだが、それは置いておいて詩自体を見てみると、すごく寂しい感じがする。しかしそれと同時に安心感もある。何故か。

 琥珀色の光が暖色であること、Bathing,batheが与える入浴のイメージ(陽光を浴びるという意味もあるみたいなので温かいものに浸る感覚が強いのかもしれない)、街灯の光の揺らめきと幽霊のゆらゆらした存在感が重なり合うこと、などなど…… 

 でも一番はやっぱり、幽霊もこの最後の1つまで残った街灯(たぶんガス灯) も世界の進む速度に置いていかれた存在者であるというこの共通点が、かくも絶妙な効果を生み出すのだと思う。例えるなら、滅びゆく世界で心の通じ合った者同士が結末を受け入れ静かに命の終わりを迎える、そういった感じ。

 

他の方がどんな訳をしてるのか調べてみたところ、ある訳では最後の二行を街灯の光が揺らめいたことに対して幽霊も揺らめき「返す」といったニュアンスでbackを取っている。つまり、この奇妙な二者間に奇妙なコミュニケーションを読み込んでいるのだが、これまた非常に面白い。

 私が最初に読んだときは、むしろ三人称的な視点から街灯の光が前景に、半透明な存在である幽霊を後景(back)に置いて、二つの透き通った存在者が琥珀色の温かい光に包まれ一体化していく、そういった場面を思い浮かべた。

 ここに二通りの見方があると思う。一つは、幽霊の純粋な一人称視点からこの詩は語られているという見方。もう一つは、「私」という確固とした存在者(≒作者)が詩の外の世界に存在しており、その人物の脳内風景としてこの詩が三人称的一人称視点で語られているという見方。

 まあ、どちらも大差ないといえばないのだが、前者の見方では作品世界が閉じていて外部が存在しないが、後者ではある種の比喩・寓話として作品世界が提示されていることから、物語行為が若干違うと思うのだが、物語行為の形式だけ見ても何がどう違うのかよく分からない。むしろ、「私」を読みこむかどうかは読書行為なんじゃないかとも思うし、どうなんだろう。

 

 しかし、改めて見ても面白い。「街灯」と「幽霊」の二語だけで既に、場面が夜であること・他に人気がないこと・静けさに包まれていること等が間接的に表現されている。

「完結した孤独」つまり、物語世界において核となるテーマ、テーゼ、ディスクールをより少ない言葉だけで語る、語れてしまう。語らなくても良いことはバッサリ切り捨ててしまっても良いんだという精神。語るべきこと、必然的に語らねばならないことのみを語る。

 表現するという営みにおいて、このことはとても重要だと思った。なぜなら、そこには他人の目が無いからだ。上手く書こう、上手く見られたいという虚栄心が無いからだ。

 こういうものを表現したい、だから表現した。もちろん、ディテールはそれなりに必要だけれど、枠組みはこれぐらいシンプルでも十分なんじゃないかなあ、と、そう思わせてくれる作品がこの詩だった。